おはようございます。USP MAGAZINE取材班 松浦です。さてお待たせしました。今回、次回と、公式ブログによるTechLION vol.10レポートをお届けします。場所や日時の問題で参加できなかったという皆様は勿論、参加された皆様も、読みながら当日の熱いステージの記憶を呼び起こしてください。
今回は有志のご協力により、本格的なUstream中継(前半、63756″>後半)もしてもらいましたので、併せてご覧ください。(忙しい方はラジオのように聞き流しながら作業するのがオススメ!)
■ちょっとだけ試合前のこと
本日のメインゲスト、村井純先生がどんな話をされたかというのが、多くの方の関心事だと思います。が、まあちょっとだけ試合前(TechLIONにおいて「試合」とは「本番」のこと)の話をさせてください。「有難い話が聞ける」というだけじゃないんです、TechLIONは。
いつものようにスタッフ総出で会場準備をしているとステージ上で、法林GMが司会者席に何やら置いてます(→写真) 何だろうと思って見てみれば、先日受賞した日中韓OSSアワード特別貢献賞のタテ(→さらに写真)。
……いやぁ、OSSに貢献した男というのはわかりますが、そこに置きますか!? そして試合中ずっと置きっぱなし。でも、このタイトルをもってして村井純ら4人の手強いゲスト達と対戦するぞ!という、いわばプロレスにおけるチャンピオンベルトなわけです。あのベルトというのも、試合を盛り上げる重要なアイテム。そう、TechLIONというイベントは、あの臨場感なのですよ。
村井純をもレスラーにしてしまうTechLION。こんなドリームマッチが開催される現場を是非観に来てほしいですね。
■前半戦、村井先生“Unix and me”
ではvol.10の前半戦、日本のインターネットの父こと、村井先生との対戦の記録をレポートします。
かんぱーい!と会場の全員で掛け声かけて、グビっと一飲み。さあ、試合開始!
本当は試合らしく法林GM&馮Pとの掛け合いをリアルに伝えたいところですが、スペースに限りもあります。なので泣く泣く、先生が披露された話を時系列順にまとめてお送り致します。
≪Unix and me≫
題目はUnix and me。邦題は「UNIXとインターネットだぁ!」。原題となんかちょっと違う気もしますが、むしろ「だぁ!」のあたりなど、トークの雰囲気をよく言い表した名訳です。以下この節は、村井先生が発した試合中のセリフ形式でお送りします。
OSを理解し、Unixに出会う
今日一番話したかったのは“Unix and me”というテーマ。俺が研究室に入った頃(著者注:先生の経歴によると1980年前後)にはPDP-11/10というマシンがあって、最初にさせられた仕事が「OSのソースを書け(リバースアセンブルして改造)」だった。PDP-11には最初RSX-11っていうOSが載ってたんだけど、見ているうちOSというものがわかっていった。ビットパターンを見ているだけで命令がわかる程にね。
その頃7th Editionや2BSDと呼ばれる、UnixというOSが現れた。Unixとはハードウェアベンダーが作ったOS部分を乗っ取るような存在。ベンダーがベストチューンしたOSより大抵遅いんだけど、その代わり自由が手に入った。ここがUnixで俺が一番好きだった発想なんだけど、即ちユーザー主体のプラットフォームという考え方が出来上がった。それで、この7th EditionにはUUCP(著者注:主に電話回線によるコンピューター接続)のコードが埋め込まれていた。
新しいことへのリスクは、大学がとるべき
84年くらい。時代はまだ、電話回線にコンピューターを繋ぐのがイリーガルで、モデムも500万円くらいした頃。こっそりこれ(著者注:UUCPを使ったコンピューター接続。やがてJUNETと呼ばれるものに)の研究をしていた。「村井先生、やってるのそれ、何ですか?」との問いに「これは研究だ」と答えながら。
悪いことをしようと思ったら……あ、違った!新しいことをやろうと思ったら大学でやんなきゃいけない。社会が新しいことに挑戦するためのリスクを取るのは大学の役目だと、俺は思ってる。というわけで、企業の人は大学にお金を払って新しいことをすべきだと思うんだけどね(笑)
しかし情報処理学会でJUNETの説明をしたら、「電子メールは重要だと思うけど、村井、それは、地下でやれ」と言われた。当時いた東工大でも
「東工大では研究として認めません」
「研究なのに、なぜこれを認めてくれないんですか?」
「東大でやってないからですよ」
と言われた程。「へぇ~~~、そーなんだ~♪」と思って、その時丁度東大からも声が掛かってて「僕、東大にいきま~す」って言って行ったんだけどね。だからコンピューターを専用線で繋ぐWIDEプロジェクトってのは東大で始めたわけ。
人と社会に受け入れられてこそのソフトウェア
東大へ行ったその頃(1986年)には、JUNETって100組織くらいが繋がってた。北大から九大まで繋がってて全国制覇!ってね。だから関係者の間では既に「ミスター電子メール」くらいのちょっとした有名人になっていた。
ところがその勤め先(東大)のセンター長で後藤英一っていう偉い先生がいたんだけど、ある日「村井君、村井君、これ見てごらん」と呼び出され、部屋にあったFAXを見せられながらこう言われた。
電子メールよさようなら、FAXよこんにちは
電子メールはキーボードから一生懸命文字を打つのにFAXだと手で書いた文字がそのまま送れることに気が付いた先生の一言だった。
「俺は一部の世界では認められているけど、この人には認められていないんだ」マーケットとして捉えた時、口説くべき相手は誰なんだろうとこの頃から考えるようになった。ソフトウェアって、いいものだから認められるのではなくて、人と社会に受け入れられるから認められるんだよね。
岩波書店にIXを置いた理由とは?
(著者注:1989年頃の話)専用線を使ってコンピューターを繋ぐということにはやっぱり抵抗をもたれていた。(著者注:NTTなど民間企業の設備であるため)「民間企業を繋ぐなんてとんでもない!」と。しょーがないので岩波書店に設備を設けることにした。
岩波だって一民間企業でしょって思うでしょ?ところがこれまたオカシなものでさ。岩波って先生方が(出版で)よくお世話になる企業だから、親近感を抱いちゃうのね。だから
「岩波はいーよ。だってアカデミックだもん!」
って言わせて説得に成功した時は「やったー!」って思った。それで岩波の中に場所借りてさ、そこをハブ(IX)にして大学間を繋いだわけ。(著者注:参考→WIDEヒストリー及びNSPIXP)
グローバルインターネットはどこから来たか知ってる?
去年、バークレイで、「グローバルインターネットはどこから来たか知ってる?」って話をしてさ。「4.2BSD、ココだよ」みたいなこと言ったんだよ。俺もこのあたりの頃から(BSDを作ってた)CSRGの連中と一緒にやってたんだけど、この4.2BSDにDARPAのTCP/IPが実装されて、間違いなくここからインターネットが本格的に広まったんだよ。それまで世界の研究機関に広まっていた4.1BSDを4.2にバージョンアップするだけでTCP/IPが動き出したんだから。
この時バン・ジェイコブソンさんってヤツが、パケットの経路を暴き出すtracerouteっていうけしからんツールを発明してこれが大流行。そしたら世界中のあちこちでバッタバッタとネットワークが落ちた。どうやら4.2BSDが抱えるICMP(TTL)処理のバグにあったということが解ったんだよね。でもそれは、当時みんなその4.2BSDのソースコードを読んで自分の環境用の実装を作ってたわけで、みんなが4.2BSDをリファレンスコードとして忠実にその作法を守ったということなんだけど。
4.2BSDの熱狂を再び起こせ!
やがてIPv6の仕様を作った時、これを普及させるためには4.2BSDと同じことが起こらなきゃダメだと想像できた。でもそう思った92年頃、CSRGには実質的に誰も残ってなかった。爆発的に広まりつつあったインターネットをビジネスにするのでみんな忙しくなっちゃってて。「BSDに関わっててまだ大学に居るヤツって誰ー?」って世界中見回すと、「え、俺だけ!?みんな大金持ちで俺一人が貧乏?」そんな感じ(笑)。
じゃあどうしようか……?それじゃ俺たちがやんなきゃ!って言ってやり始めて、それがやがてKAMEになってv6のリファレンスになっていった。
≪村井先生はネットワーク屋の前に、Unixマニアだ!≫
私が先生のトークを観戦して抱いたのは、インターネットの父である以前にこの人もまた一人のUnixマニアだったんだ、という思いでした。日本ではとかくインターネットの父として語られますが、それはまだコンピューターネットワークが未開拓だった日本において、UnixのソースコードにあったUUCPやTCP/IPのコードを動かしてみたい、そんなマニア心が原動力だったのではないかと。
トーク中、「某バージョンのBSDなんて目を瞑ってviできた」や「寝ながらカーネルデバッグできた」に始まり、コンピューターやUnixをしゃぶり尽くしていた話が次々と語られ、次第にそうとしか思えなくなりました。Unix哲学に強い影響を受けながら仕事をしている本イベント主催のUSP研究所に対し「こんな奴らがまだいたんだ!」とエキサイトするシーンもありましたが、これもそれ故なのだろうと。
トークの終盤では、ビル・ジョイ(BSDまとめ役・vi,csh作者)、カーク・マキュージック(UFS等開発者)、エリック・オールマン(sendmail作者)といった、Unixの名だたる偉人達とのエピソードを披露していましたが、当時はまださほど有名ではなかった彼らとUnixという名のプラットフォームで会話をし、そして皆でUnixを成長させていった光景が目に浮かぶようです。そんなUnixマニア集団の中にいた一人がJun Muraiという日本人だった、と。そう思うと、今更ながら俺はスゴい人に会ってきたんだと、身震いします。
ありがとうございました。
というわけで次回、後半戦のレポートに続きます。今度は先生もツッコミ役司会役に回りながら、三人のゲストを迎え撃ちますよ。(ツッコミ役に回ったはずが、よりによって味方からツッコミを受けるシーンも!)